城と庭について,、そのパーツなどで訳を解読出来ればと思います。

2016年11月23日水曜日

和歌山城、西の丸庭園

御橋廊下から天守の方を見ています。
堀に中島があります。完全に堀を池に見立てています。
写真では見にくいですが、中央左下に島があります。
 
 
西の丸庭園、紅葉渓庭園ともいわれてるそうです。石組とか良いなと思いますが、今回、最高のポイントを見つけました。写真中央の舟石?らしき平坦な石のところです。ここからは全周360度見渡すことができます(多分)。お殿様の特権の場所だと思います。実際にはこの石の近くまで出島のようなところがあり、その先端に立てば想像することができます。この場所には、人がいなかったのでゆっくりと眺めることができました。正面には滝が二つ、左手には石組が前後に奥行きをもって据えれており、鑑賞式庭園でもなかなかこのようなポイントはないと思います。


 
御橋廊下:
藩主の生活の場である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来する橋で、平成18年に復元。長さ27m、幅約3m。江戸時代には藩主とそのお付きの人だけが行き来でき、外からは姿が見えない造り。今は通り抜けができます。
 


2016年10月28日金曜日

安土城の石垣

 石垣と全く関係ないかもしれませんが、ひょっとしてというアイデアです。鎌倉から南北朝にかけての石造品の数です。


にある滋賀県の各市町村での数を調べて見ました。単純に数えるのはダメだろうと思い、その地域の人口で割ってみました。
 国勢調査の人口なので問題ありますが、目安になるかもというグラフです。


 図の矢印のところが近江八幡市で安土町を含みます。周りに比べて石造物が少ないように思われます。これが、安土城が出来たときに周辺の石造物を石垣に転用した影響であると言えるのかどうか。忘れてしまいそうなので、これまたメモ書きです。

追記:2016/10/29
 羽田神社の石灯籠(滋賀県東近江市上羽田町2257)
説明板には有りませんが、安土から移転したらしいです。竿の部分に正応元年(1298)の紀年銘がり、鎌倉時代後期を示しているとのことです。羽田神社の社歴によれば、天正九年伊達中納言政宗の領地になり代々寄進再建を加えられたとあり、また天正七年(1579)に安土城天守が完成しています。この頃に移動があった可能性はあります。

 

2016年10月11日火曜日

慈光院庭園


寛文3年(1663年)に石州流茶道の祖・片桐石見守貞昌(石州)が父・貞隆の菩提寺として大徳寺185世・玉舟和尚(大徹明應禅師)を開山に迎え建立。慈光院の名は父・貞隆の法名「慈光院殿雪庭宗立居士」から採られています。境内全体が茶室として設計されており、石州の美意識が具現化されたもののようです。
座敷から眺める東側、奈良の青垣と呼ばれる山々から南側の大刈り込みまで連続してつながるワイドスクリーンの風景が素晴らしいです。写真は2枚です。
 


ここでの大刈り込みは庭に出てみるとわかりますが、観音堂をくるんだ形になっていて屋根のあたりだけが見えます。刈り込みの両側を囲まれた中、石段を上がって行き、観音堂でお参りした後、振り返ると屋敷内で見た時より、高い視点で風景を楽しむことができます。

以下、思いつきです。
ここと名古屋城二之丸庭園の権現山と同じではないかと思います。もちろん名古屋城の方は石段などスケールアップしていますし、拝殿・本殿と多分権現造りで、周りは杦(杉のことだと思います)に囲まれているなど尾張徳川家のアレンジがあると思います。初期の二之丸庭園ではこのような神社などはなく、江戸時代後期にはできています。慈光院庭園は1663年ですので時期的にはあっています。また石州は4代将軍家綱のお茶指南役になっていて、各地の大名も学んでいるようです。その中に尾張徳川家があって、石州の影響で庭を造り直した可能性は大きいと思います。
配置図、慈光院と二之丸庭園権現山付近です。


2016年9月24日土曜日

明治の金閣寺・銀閣寺

庭とは関係ないですが。
京都名所撮影という明治初期に発売された写真集らしいです。
(日文研の資料より)
金閣寺と銀閣寺です。金閣寺などは2階に廊下状のものがあり、
銀閣寺も障子らしきものがぼろぼろで、廃仏毀釈の影響かもしれませんが、びっくりしました。


2016年9月12日月曜日

名古屋城二之丸庭園

9月5日に名古屋城に出かけました。


二之丸庭園マップです。現在のものです。マップがないとまったくわかりません。当然、人はおりません。


御城御庭絵図、江戸時代後期のものです。復原目標らしいです。

二之丸東庭園、南池
上の図の右下の池です。
御城御庭絵図に南池では、池の中に島が見えます。
実際は深さがあり、隠れているとのことで、今後詳しく調べられるようです。

中央の石のあたりに島があったようです。

権現山(上の写真)
山頂に本殿・拝殿の跡があるそうです。今は立入禁止です。中央に石の階段が見えます。手前の石橋から渡って行くのだと思いますが、仮の石橋のようで横に落ちそうです。
頂上にいってみたいと思いましたら、映像がありました。この橋の左、写真の左下の小島は亀島のように見えます。池の底にへばりついているような感じで枯れ池かもしれません。


赤坂山
前の写真の左手に(西側)に中島があります。赤坂山と呼ぶようです。西側から見たのが次の写真です。
この島を通って権現山の方に行けそうです。写真の奥の方に斜めの石段が見えます。

亀?
この中島の右手にびっくりしました。顔に見えます。

山の間を回遊する庭で、異常に山が多いように感じました。栄螺山(サザエヤマ)はシートをかぶせてあったように思いますが、雨が降り出しそうになり、あせってしまい、今は二子山・笹巻山の区別がわかりません。多分、二子山。てんこ盛りのイメージです。





あと、名古屋城のジオラマの写真で、二之丸庭園の位置がわかると思います。
左が二之丸庭園、右が天守閣です。
庭も、木とか育ちすぎです。修復されて見通しが良くなれば、立体感のある庭に復活すると思います。
名古屋城、本丸御殿とかほかの所も良かったです。1枚だけ追加。

旧二之丸東二之門
この門は移築されてきたものですが、中央は清正石と呼ばれる名古屋城で最大の石材で、ワンポイントになってます。

篠山城

正方形のシンプルな形の城です。天守閣は家康の命令でもともとありませんが、石垣や堀などの遺構が原形を残しているとのことです。注目すべきは城の出入り口の緩衝的な馬出が2カ所残っています。
南馬出が一番大きく、今も城からこちらに出て行くことができます。
 
 

埋門跡(ウズミモンアト)
普通は、非常時には埋めて城外と遮断するところといいますが、ここは違うと思います。広すぎます。おそらく石段3方向から攻撃することを考えたのでしょう。

石垣
南側の三の丸から見ています。右手の一段上がったところが天守台、中央の木の間に埋門があります。そこからスロープを降りて、写真ではわかりませんが、内堀があり、埋め立てた道を渡って出てきます。

元は南廊下門を渡るようですが、今はありません。南馬出から南門、三の丸、南廊下門、埋門と入っていくようです。


庭園跡
埋門のそばに庭園があったそうで、築山があり、ここから埋める土を用意できるとは思います。
可能性は低いですが。図では緑の築山の左上の長方形が埋門です。

東馬出の方はきちんと形が残っています。


2016年9月8日木曜日

金沢城 河北門

再建されたもののようです。


石垣を見たら、かなり左右対称に見えます。
古い時代の石垣ではなく、平成の時代の石垣であることを示すためなのかと思いました。
中央部の石を見やすいようしたのを見てください。

本当は上の写真が元ですので、こちらは見やすいように加工しました。これも見やすくないようなので色つきにしてみました。次の図です。

忘れないうちにアップしておきます。

2016年8月5日金曜日

金沢城公園 玉泉院庭園

加賀藩第三代藩主「前田利常」による作庭を始まりとして、歴代の藩主により手を加えられてきたものの、明治期に廃絶されてしまいました。玉泉院庭園は、饗応の場としての兼六園に対し、内庭としての性格が持つ庭園と考えられています。平成27年に復原されていて、現代の庭園のように思えます。今のものは江戸時代の遺構の上に2mほど盛土し、絵図やその遺構に基づいていて、昔の雰囲気を楽しむことができるよう作庭されています。池泉回遊式庭園で池には3つの中島がもうけられ、緑の芝生がきれいに手入れされ、癒やされる感じがあります。


上の写真は石垣の方から庭を見ています。右の建物が休憩所(玉泉庵)で左の高台に唐傘が見えます。池の形や中島の配置は絵図の通りです。

玉泉庵からの風景、木橋、段落ちの滝、奥に色紙(方形)、短冊(縦長方形)状の石からなる石垣など奥行きを感じます。普通は庭の背景が山になっていますが、石垣です。



写真でははげたような石垣に見えますが、近くで見るとそうでもありません。縦長の石など不安定ですが、意匠だけのために積まれているようです。その石垣からV字形の石樋から落ちる滝(実際には水は落ちてないです)もあったようです。


池の北側(玉泉庵から庭を見て左側)が未整備らしく、本当はもっと拡がっていたようです。中島が立入禁止で少し残念でした。木橋からの風景も良さそうに思えます。

2016年5月23日月曜日

小石川後楽園

江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に 完成した庭園です。見るポイントが多くはしょっています。

小廬山
一面オカメザサでおおわれた、円い築山。その姿、形が中国の景勝地・廬山に似ていることから江戸の儒学者・林羅山が名づけたもので、山頂より庭園を見おろせます。とありましたが、見落としました。

西湖の堤
中央部の傾斜がゆるやかな石橋ですが、全然目立ちません。しかしこの橋が各地の大名庭園に広まって行くそうです。将軍とかがこの橋を渡っていったのでしょうか?
大堰川
渡月橋から大堰川を見ています。名所写しです。橋もそうですが名前を聞かなければそうだとは思えません。しかし石の配置は直線上で奥にいくほど川幅よりも狭まっていて、視線は奥の方に向けられます。(写真右下の線)
 
屏風岩
三代将軍家光が近くの河原の石に腰掛けたといわれる場所ですが、よくわかりません。何かしら風景が変わっているのかもしれません。
 
清水寺観音堂跡

京都清水寺を写した観音堂があったが、大正12年の関東大震災で焼失した。案内板の説明です。図では目立ちませんが、下から観音堂の方を見ると石組みが鶴のように見えます。単なる柱の礎石では無いようです。焼けてなければわからなかったかもしれません。
写真上の柵が観音堂跡で、石組みに赤線を入れたのものを右下に表示しています。
古図では観音堂の左に手水鉢が置かれています。清水寺の手水鉢では梟(フクロウ)の水というのがあって、土台が梟の形だそうです。これを模しているのかとも思えますが、観音堂跡では手水鉢は少し埋まっています。その雰囲気はありません。謎です。
 
通天橋

赤い橋が通天橋、紅葉の季節が良いようです。右手の方に音羽の滝とのことですが、枯滝になっていてよくわかりません。
 
得仁堂
 
扁額の左に源治寶玉?とあるのは何だろうと思います。ちゃんと読めてないかもしれませんが、不明です。四辺にある動物のような文様もわかりません。
 
円月橋
残念ながら光の加減か、円に見えませんでした。橋は通れません。石がきちんと加工してあります。感心しました。
 
八卦堂跡
何かの残欠だったのですが、写真を見て石灯籠の火袋部分であるように思いました。六角形と三日月形の穴加工されていることなどからです。
案内板の写真からです。灯籠の形がなんとなくわかります。
八卦堂は関東大震災で焼失しましたが、下の八角形の礎石の部分は残っていました。
 
内庭

島に石橋を2カ所でかけていますが、島が曲線でできていて、いい感じです。下の方はドームの形状とマッチしていて現代の借景になっているように思いました。島の形はすばらしい。
 
大泉水
現在のメインとなる風景です。中央の石が徳大寺石で後ろの島が蓬莱島です。赤く見えるのが弁財天で、祠が右を向いています。古い時代には池の中に鳥居があったりして左からがメインの風景であったようです。横から見ると亀島らしく見えるのでそうだろうなと思います。
 大きな橋が架かっていたりしていたこともあったようで、時代によって変化しているので思い込みにならないよう注意しないといけないようです。
 白糸の滝が修復工事中でした。完成後が楽しみです。

2016年5月16日月曜日

浜離宮恩賜庭園

 土曜日(2016.05.14)に出かけてきました。新橋駅より歩きで大手門橋から入りました。ここは枡型大手門で江戸城の出城の役目もあったというのにも納得するものがあります。
三百年の松、6代将軍家宣が、庭園を大改修したおりに植えたと伝えられる黒松。


内堀の船着き、上の写真の中央部、階段状になっているところ。
船遊びで使用されたものと思ってましたが、江戸城に物資を運び込む中継施設のようでした。
現在のお花畑のところに籾倉(モミグラ)と呼ばれる倉があったようです。

潮の干満により風景が変わるらしい大泉水と呼ばれる潮入の池、お伝い橋を通り、中島の御茶屋の手前、池の中程から見ています。手前の島が小の字島、奥の建物が燕の御茶屋、左手の奥の方に三間橋があります。奥行き感がありいい眺めです。家宣の時代には中島には、現在工事中で見ることはできなかったですが中島橋がかかっていたようです。池の形がゆるやかな曲線、玉石敷きの護岸などで、石組みも目立たず、ぼーっと眺めるのに適した風景です。
お伝い橋は6代将軍家宣の時に初めてもうけられたそうですがよくわかりません。
しかしながら11代将軍家斉の時代、この浜御殿への御成は50年間に248回に及び、目的は鴨場の放鷹(ホウヨウ)であり、この時代に大改修され燕の御茶屋・松の御茶屋・鷹の御茶屋・新銭座鴨場などを設けたとのことです。庚申堂鴨場はこのときにの図にありますが、将軍になる前の安永7年(1778年)に築造されています。家斉の時に現在の姿の庭園になったようです。明治以降は浜離宮と改められ、迎賓・謁見の場として利用されたようです(パンフレットなどより)。

池の向こうには松の御茶屋があります。中には入れず、ガラス越しでは反射がきつくて中は見にくいですが、こちらから望遠鏡では少し見えそうです。左手には燕の御茶屋があり、その奥の方には鷹の御茶屋跡があります。

富士見山からの眺望です。富士山は画面から外れて左側になると思います。昔は見えていたのでしょう。この写真も高層ビルを避けています。

御亭山(オチンヤマ)から見ています。東京タワーは庭になじんでいる気がしますが、高層ビルは合わない感じがぬぐえません。もっと密集して壁のようになれば良いのかもしれませんが。右手の藤棚のところが小の字島、左手の屋根が中島の御茶屋です。

池の向こうは八景山と呼ばれる場所で、いろいろな風景を楽しめた場所のようです。そこに石組があります。これはお伝い橋の陰になり対岸からは見えないのですが、御亭山では高さがあるのでやっと見ることができます。これは何だろうと考えましたが、瘤のある鳥の顔ではないかと思うようになりました。青石が瘤、その右の石が目になります。

これは横堀の岬の先端に石が置かれていますが、水鳥の形に見えます。これとの関係です。もう少し見つかれば鳥をテーマにしていたと言えると思います。探してみてください。



鴨場の写真3枚です。最初は小覗きで、細いスリットから引堀に鴨をおびき寄せるのを見ます。2枚目は反対側でこの溝におとりのアヒルで鴨を導くようです。3枚目は大覗で、丸い穴から池の様子をうかがいます。大量に鴨を捕まえようとしていたのか、家斉はのめり込んでいたようですが、想像できません。
海手御茶屋跡、別名汐見の茶屋です。6代将軍家宣の時に建てられ、関東大震災で焼失したと案内板にありました。

追記:2016/05/16
 考えれば御茶屋の名前にツバメ・タカなどがもちいられているので鳥がテーマなのは当然でした。松の御茶屋の写真を追加します。ちゃんと鳥がいます。