琳派誕生400年記念ということで、京都国立博物館に出かけてきました。
その前にちょっと調べておこうと思って今まで撮りためていたビデオの中に
宗達の松島図屏風の紹介のものがありました。
この絵を見て、龍安寺の石庭を思い出しました。
「琳派 京(みやこ)を彩る」の会場でもいろいろなものが展示されていて、絵画だけが対象ではなくすべてに当てはまるというか、庭もその一部であると改めて思いました。当時の人は絵の風景を庭の中に見ていたかもしれないです。
今回、琳派の絵が多く海外に渡っていることを知りました。いろいろみられるものと思っていましたが、松島図屏風とかこれから見ることができるのだろうかという気がします(日本で)。
城と庭について,、そのパーツなどで訳を解読出来ればと思います。
2015年10月20日火曜日
2015年5月31日日曜日
当麻寺、中の坊庭園
大和三名園の一として名高い庭園「香藕園(コウグウエン)」
江戸時代初期、第111代後西天皇の行幸に際し、第4代将軍家綱の茶道指南役であった片桐石州公が現在の姿に改修しましたとのこと。
庭に入っていくところ、少し大きめの踏み石の場所がベストポイントだと思います。
手前の心字池、背景になる三重の東塔が良く見える場所ですが、塔の手前の木が生長しすぎてマイナスです。庭の風景としては崩れているように感じました。
書院の方で後西天皇の玉座が展示されていました。
しかし、ここからは三重塔は全然見えません。池はわかりますが門が見えるぐらいです。ベストポイントでは無いようで、門をアイキャッチにして三重塔へのアプローチの伏線かもしれません。
少し角度が違う写真ですが、この門を出て、土塀の向こうに灯籠が見えます。そこを経由して塔の方に行けるようです。見学コースではないので行けません。実際は途中の屋根の見える休憩所らしきところまでしか行けないのかもしれませんが、回遊式庭園で高所から眺めれば池の形などおもしろいと思いますが、残念でした。この門の左手にももう一つ門があり、そちらからも行けるようです。
訂正:西塔→東塔、勘違いしていました。H27.06.01
江戸時代初期、第111代後西天皇の行幸に際し、第4代将軍家綱の茶道指南役であった片桐石州公が現在の姿に改修しましたとのこと。
庭に入っていくところ、少し大きめの踏み石の場所がベストポイントだと思います。
手前の心字池、背景になる三重の東塔が良く見える場所ですが、塔の手前の木が生長しすぎてマイナスです。庭の風景としては崩れているように感じました。
書院の方で後西天皇の玉座が展示されていました。
しかし、ここからは三重塔は全然見えません。池はわかりますが門が見えるぐらいです。ベストポイントでは無いようで、門をアイキャッチにして三重塔へのアプローチの伏線かもしれません。
少し角度が違う写真ですが、この門を出て、土塀の向こうに灯籠が見えます。そこを経由して塔の方に行けるようです。見学コースではないので行けません。実際は途中の屋根の見える休憩所らしきところまでしか行けないのかもしれませんが、回遊式庭園で高所から眺めれば池の形などおもしろいと思いますが、残念でした。この門の左手にももう一つ門があり、そちらからも行けるようです。
訂正:西塔→東塔、勘違いしていました。H27.06.01
2015年5月10日日曜日
二条城二の丸庭園
大阪くらしの今昔館の特別展、天下人の城大工-中井大和守の仕事Ⅲ-見てきました。
講演会があったのですが、満員盛況のようで展示だけになりました。図面の展示など初めて見ましたが、屏風図なども東寺の様子がうかがえておもしろいものがあります。
二条城二の丸庭園の池のところ(南側)ですが、現在と形が違っています。御行幸御殿から池に御亭が飛び出しています。こちらからが第1番のビューポイントであったようです。大工頭中井家関係資料として残ってるようです。
二条城行幸時の配置図
二条城の配置図
講演会があったのですが、満員盛況のようで展示だけになりました。図面の展示など初めて見ましたが、屏風図なども東寺の様子がうかがえておもしろいものがあります。
二条城二の丸庭園の池のところ(南側)ですが、現在と形が違っています。御行幸御殿から池に御亭が飛び出しています。こちらからが第1番のビューポイントであったようです。大工頭中井家関係資料として残ってるようです。
二条城行幸時の配置図
二条城の配置図
2015年4月23日木曜日
狩野派、永徳の後継者たち
京都国立博物館で開催されています。その中に
重要文化財「豊臣秀吉像 西笑承兌賛」が展示されています。
光信筆 愛媛・宇和島伊達文化保存会. 現存する秀吉を描いた画像の中で、最大(縦130.0×横103.5cm)の大きさを誇る。絵師の落款はないが、顔や手を極端に小さくあらわす点や背障の松の表現に光信の個性が顕著である。
多分、このような絵が展示されていました。この絵はどの場所のものだろうと思っていました。後ろの山水画のふすまの奥に刀が見えます。秀吉のものでしょう。また手前に欄干があります。ふすまの黒い枠に三五の桐のマークがありました。それで醍醐寺三宝院の書院のところではないかと想像しました。三宝院は写真撮影禁止です。これは完全な想像です。
三宝院庭園 NHKみちしるより
追記:
秀吉は何をしてるか、もう少し言えば、手前にある三宝院の縄張り(庭の配置などをビューポイントの書院から見て指図する)の作業中なのではと思います。醍醐寺に寄った時に刀をほったらかして作庭に熱中している様子を描いたものではないでしょうか。
追記2:H27.05.31
建築に先だって庭園が築造された。とのことです。従って三宝院縄張りの図ではないようです。
醍醐寺大観第三巻 醍醐寺三 岩波書店2001.12.21第一刷発行
秀吉の縄張りに基づく作庭が慶長三年1598四月ー五月の約40日間。一方、義演による作庭は翌慶長四年から元和10年1624までの26年におよぶ。慶長二年の醍醐の花見を催した秀吉は、翌年に義演再興の庭を見る。そして自らの構想による作庭を試みる。翌慶長五年の後陽成天皇の行幸に呼応する座観式の庭園であった。2月20日、秀吉の現地での縄張りとともに、聚楽第から名石、藤戸石を移すよう命じている。実際の作庭は四月七日から始まり、八日には藤戸石が運びこまれ、翌九日は立てられた。慶長三年8月秀吉没後、義演がこれを元に北政所、秀頼の援助で建物を含めて完成される。
追記3:H30.12.18
秀吉の縄張りに先立って、義演の庭があったようです。
「日本庭園の歴史と文化、小野健吉著、吉川弘文館発行」からです。
この庭は、豊臣秀吉が自ら縄張りを行って築造された庭園として名高い。また、秀吉の没後作庭を引き継いだ醍醐寺座主・義演准后がその築造過程を「義演准后」に克明に記録した庭園としてしられる。とあり途中省略しますが、
最初は金剛輪院と呼ばれ、もともと将軍足利義教に重用された禅僧・任庵主《にんあんじゅ》の手になる池庭があったが、天正3年(1575)十八歳であった義演がこれを棄却してしまったのである。このことを深く航海した義演は、その後、庭を再興したことを自ら編纂した「醍醐寺新要録」に記している。秀吉が見たのは、この義演再興の庭に他ならない。そして秀吉は、自らの構想による作庭を試みる。二月二十日、秀吉は金剛輪院を訪れ、庭園の縄張りすなわち現地での地割設計を行うとともに、聚楽第から「名石」すなわち藤戸石を移すよう命じている。・・・
秀吉の作庭に費やした時間はおよそ40日、義演による作庭は二十六年にわたるとのことで、醍醐寺三宝院の庭は義演准后の庭であるとのことです。
重要文化財「豊臣秀吉像 西笑承兌賛」が展示されています。
光信筆 愛媛・宇和島伊達文化保存会. 現存する秀吉を描いた画像の中で、最大(縦130.0×横103.5cm)の大きさを誇る。絵師の落款はないが、顔や手を極端に小さくあらわす点や背障の松の表現に光信の個性が顕著である。
多分、このような絵が展示されていました。この絵はどの場所のものだろうと思っていました。後ろの山水画のふすまの奥に刀が見えます。秀吉のものでしょう。また手前に欄干があります。ふすまの黒い枠に三五の桐のマークがありました。それで醍醐寺三宝院の書院のところではないかと想像しました。三宝院は写真撮影禁止です。これは完全な想像です。
三宝院庭園 NHKみちしるより
追記:
秀吉は何をしてるか、もう少し言えば、手前にある三宝院の縄張り(庭の配置などをビューポイントの書院から見て指図する)の作業中なのではと思います。醍醐寺に寄った時に刀をほったらかして作庭に熱中している様子を描いたものではないでしょうか。
追記2:H27.05.31
建築に先だって庭園が築造された。とのことです。従って三宝院縄張りの図ではないようです。
醍醐寺大観第三巻 醍醐寺三 岩波書店2001.12.21第一刷発行
秀吉の縄張りに基づく作庭が慶長三年1598四月ー五月の約40日間。一方、義演による作庭は翌慶長四年から元和10年1624までの26年におよぶ。慶長二年の醍醐の花見を催した秀吉は、翌年に義演再興の庭を見る。そして自らの構想による作庭を試みる。翌慶長五年の後陽成天皇の行幸に呼応する座観式の庭園であった。2月20日、秀吉の現地での縄張りとともに、聚楽第から名石、藤戸石を移すよう命じている。実際の作庭は四月七日から始まり、八日には藤戸石が運びこまれ、翌九日は立てられた。慶長三年8月秀吉没後、義演がこれを元に北政所、秀頼の援助で建物を含めて完成される。
追記3:H30.12.18
秀吉の縄張りに先立って、義演の庭があったようです。
「日本庭園の歴史と文化、小野健吉著、吉川弘文館発行」からです。
この庭は、豊臣秀吉が自ら縄張りを行って築造された庭園として名高い。また、秀吉の没後作庭を引き継いだ醍醐寺座主・義演准后がその築造過程を「義演准后」に克明に記録した庭園としてしられる。とあり途中省略しますが、
最初は金剛輪院と呼ばれ、もともと将軍足利義教に重用された禅僧・任庵主《にんあんじゅ》の手になる池庭があったが、天正3年(1575)十八歳であった義演がこれを棄却してしまったのである。このことを深く航海した義演は、その後、庭を再興したことを自ら編纂した「醍醐寺新要録」に記している。秀吉が見たのは、この義演再興の庭に他ならない。そして秀吉は、自らの構想による作庭を試みる。二月二十日、秀吉は金剛輪院を訪れ、庭園の縄張りすなわち現地での地割設計を行うとともに、聚楽第から「名石」すなわち藤戸石を移すよう命じている。・・・
秀吉の作庭に費やした時間はおよそ40日、義演による作庭は二十六年にわたるとのことで、醍醐寺三宝院の庭は義演准后の庭であるとのことです。
2015年4月12日日曜日
勧修寺庭園
カジュウジと読むようです。カンジュジ、カンシュウジとも。京都市山科区勧修寺仁王堂町。醍醐天皇のころの開創で近くの醍醐寺とかも時代のつながりを感じました。回遊式庭園で、案内板では中心に氷室の池があり、平安時代には毎年正月二日にこの池の氷を御所に献上しその厚さで後刻豊凶が占われた古池とのことです。都名所図会ではバージョンによっては少し違いますが、1786年より後の時代のようです。
グーグルマップで池の形を見ました。下が北で180度回転しています。池にある島の数が違い、今の島との対応がわかりません。
奥の方に忘帰?亭があり、上の名所図会の拡大版と、今の茶室の後らしきところの写真です。
円柱状の手水鉢風のものが似ています。
池の図で左側からの写真です。
右の建物は、観音堂で昭和6年の再建です。名所図会にはありません。中央左の島に木々の中に四角い石が隠れていました。これも後から追加されたものだろうかわかりません。もう少し散髪してもれえればすっきりすると思います。
グーグルマップで池の形を見ました。下が北で180度回転しています。池にある島の数が違い、今の島との対応がわかりません。
奥の方に忘帰?亭があり、上の名所図会の拡大版と、今の茶室の後らしきところの写真です。
円柱状の手水鉢風のものが似ています。
池の図で左側からの写真です。
右の建物は、観音堂で昭和6年の再建です。名所図会にはありません。中央左の島に木々の中に四角い石が隠れていました。これも後から追加されたものだろうかわかりません。もう少し散髪してもれえればすっきりすると思います。
2015年4月1日水曜日
備中松山城
本当の天空の城(城跡でない)で人気のお城です。
天守の残る日本一高い山城だそうです。
高梁市内から小さく見えます。
鞴(フイゴ)峠までバスです。奥の方の大松山城が初期のもので手前が現存している小松山城です。
次、大手門跡の図です。実際には建物は残っていません。
矢印の方から見たのが次の写真です。右手下の石垣の間が通り口です。その向こうに岩に石垣を合体させているところが見えます。前の図と比較しながら見ないとわかりにくいと思います。
案内板です。
次、天守正面です。岩盤に石垣を並べています。どのように作っていったのだろうと思いましたが、最初の岩山に沿うところから水平の高さにそろえていくように見えました。
天守の石垣部分接近して横から見ています。
天守の裏側の石垣です。正面と比べて少し手抜き感があります。
天守内部の平面図です。いろりがありました。
寒さ対策で当然かとは思いますが、ほかの城は火鉢とか使ってたのでしょうか。今まで気にしたことがなかったです。
天守の残る日本一高い山城だそうです。
高梁市内から小さく見えます。
鞴(フイゴ)峠までバスです。奥の方の大松山城が初期のもので手前が現存している小松山城です。
次、大手門跡の図です。実際には建物は残っていません。
矢印の方から見たのが次の写真です。右手下の石垣の間が通り口です。その向こうに岩に石垣を合体させているところが見えます。前の図と比較しながら見ないとわかりにくいと思います。
案内板です。
石垣の中の丸い石がポイントかもしれません(矢印)。
次、天守正面です。岩盤に石垣を並べています。どのように作っていったのだろうと思いましたが、最初の岩山に沿うところから水平の高さにそろえていくように見えました。
天守の石垣部分接近して横から見ています。
天守の裏側の石垣です。正面と比べて少し手抜き感があります。
天守内部の平面図です。いろりがありました。
寒さ対策で当然かとは思いますが、ほかの城は火鉢とか使ってたのでしょうか。今まで気にしたことがなかったです。
2015年3月29日日曜日
頼久寺庭園
関ヶ原の合戦後、小堀遠州(政一)の父正次が備中国奉行として政一(遠州)とともに松山に赴任し、松山城の荒廃のため、頼久寺で政務を執っていたことがあり、頼久寺を仮の居館としていたときに作庭されたといわれています。しかし遠州が作庭に携わったという明確な記録が残っておらず、詳細は不明です。(案内板より)。遠州は公儀多忙で、この地に長期滞在することもなく、自分のための庭を作る余裕はなかったのではないかとも言われています。遠州の作庭は可能性は低いですが、昔に訪れたときと比べてすっきりとしていました。サツキの苅込も季節になればきれいになると思います。
中央右手の立った石のところが鶴島、奥の方の真ん中の石組みが亀と考えられていて、後ろの借景にあたる山が愛宕山です。鶴島の手前に礼拝石のような平たい石がおかれています。残念ながら借景が隠れていますが、その方向に少し建物が見えていますので、背を低くすれば目立ってしまうのかもしれません。借景との関係で、次のがベストな位置になると思いますが、鶴と亀が近づいてしまいます。手前の小さな石が近江富士をあらわし、遠州のふるさと近江をシンボライズしてるとの話も本当かわかりません。現在の建物は天保10年(1839)の火災により建て直されたものでビューポイントは合ってない可能性があります。
次の写真は書院と庫裏の間の灯籠です。サツキの苅込がこちらの方からは良く見えます。
上の写真ほぼ中央の灯籠にこの寺の歴史を示す暦応2年の銘があるそうです(多分)。火袋のところですが、4面のうち何面かに仏様が見えます。宝塔かのパーツに穴をあけ転用したもののようです。私は全然気がつきませんでした。
四角の領域に石を敷き詰めた花壇風のところ、遠州好みの花壇のように見えますが、簡単に造作できるようで、遠州作庭とはいえないようです。
中央右手の立った石のところが鶴島、奥の方の真ん中の石組みが亀と考えられていて、後ろの借景にあたる山が愛宕山です。鶴島の手前に礼拝石のような平たい石がおかれています。残念ながら借景が隠れていますが、その方向に少し建物が見えていますので、背を低くすれば目立ってしまうのかもしれません。借景との関係で、次のがベストな位置になると思いますが、鶴と亀が近づいてしまいます。手前の小さな石が近江富士をあらわし、遠州のふるさと近江をシンボライズしてるとの話も本当かわかりません。現在の建物は天保10年(1839)の火災により建て直されたものでビューポイントは合ってない可能性があります。
次の写真は書院と庫裏の間の灯籠です。サツキの苅込がこちらの方からは良く見えます。
上の写真ほぼ中央の灯籠にこの寺の歴史を示す暦応2年の銘があるそうです(多分)。火袋のところですが、4面のうち何面かに仏様が見えます。宝塔かのパーツに穴をあけ転用したもののようです。私は全然気がつきませんでした。
四角の領域に石を敷き詰めた花壇風のところ、遠州好みの花壇のように見えますが、簡単に造作できるようで、遠州作庭とはいえないようです。
2015年3月27日金曜日
うかん常山公園、城型展望台
岡山県高梁市にあります。タカハシシとはちょっと読めませんが、ここには石の風車があり、実際に回転しているものもありました。公園内に城型展望台があります。模擬天守ですが、石垣がおもしろかったです。モザイク状のものは初めて見ました。塗り絵で文字か絵が浮かんできそうですが、わかりません。
近くに常山城跡がありましたが、四阿風の建物があり、このあたりかと思い引き返してしまいました。堀切の跡とかあったようですが、まったく気がつきませんでした。承久の乱の時に戦功で秋葉氏がこの地に地頭として配置され、山城を築いたそうです。それが備中松山城のはじまりの大松山城を作った秋葉重信です。常山城で検索すれば、調べている方がおられて、写真とか説明が見られるます。私は説明板のみです。
近くに常山城跡がありましたが、四阿風の建物があり、このあたりかと思い引き返してしまいました。堀切の跡とかあったようですが、まったく気がつきませんでした。承久の乱の時に戦功で秋葉氏がこの地に地頭として配置され、山城を築いたそうです。それが備中松山城のはじまりの大松山城を作った秋葉重信です。常山城で検索すれば、調べている方がおられて、写真とか説明が見られるます。私は説明板のみです。
2015年3月26日木曜日
加賀屋新田会所
現在、大阪府下では、東大阪市の鴻池新田会所跡、八尾市の安中新田会所跡(旧植田家住宅)、大阪市住之江区の加賀屋新田会所跡の3つが公開され、加賀屋新田会所はその一つです。会所とは新田開発の拠点となったところです。
案内板の図を示しますが、建物と庭が一体となっていて非常にうまく作られていると思います。
入り口の冠木門(カブキモン)。屋根と額が注目ですが、私はウラオモテが違う戸が気に入りました。
鳳鳴亭から滝が小さく見えました(画面中央)。
鳳鳴亭は池の前に突き出していて船のように見えます。茶室の方にある、船のへさきのイメージの石。
石段、ここから船に乗り、道頓堀へ芝居見物に出かけたらしいです。すぐ外が水路になっていたようです。
池の中の島、何となく亀に見えますが、鶴が見つからないので亀島かわかりません。
上の写真、左上にある方形の屋根のところ、明霞亭。空襲で焼けて再建されたもの。新田などが見渡せたビューポイントだったところと思います。庭の方も植栽が生い茂っていて見にくい感があります。
壊れかけた下の方に亀甲紋が残っている灯籠。
鳳鳴亭、廊下の板の幅が違いました。左の網代など良い感じです。あまり良さがわかっていませんが、あちこち見るとおもしろいです。
(追記)
遠州流の庭について
孤篷庵という遠州の終の住処となったところがあります。火事で焼失しますが、崇敬していた松平不昧が古図により再現したものと伝えられています(ウィキペディアより)。庵号の「孤篷」は「一艘の苫舟」の意で、建物も船から庭を望むような雰囲気に仕上げられています。この庭もどこが遠州流だと思いましたが、船に見立てたところなど共通する感覚はあります。
ここは回遊式の庭園で、茶室に向かうところ石橋から入りますが、桂離宮の石橋から松琴亭のあたりを思い出しました。楽しく庭巡りができます。古くて立ち入り禁止のところなどありますが、きちんと修復されればもっと良くなると思います。
案内板の図を示しますが、建物と庭が一体となっていて非常にうまく作られていると思います。
入り口の冠木門(カブキモン)。屋根と額が注目ですが、私はウラオモテが違う戸が気に入りました。
鳳鳴亭から滝が小さく見えました(画面中央)。
鳳鳴亭は池の前に突き出していて船のように見えます。茶室の方にある、船のへさきのイメージの石。
石段、ここから船に乗り、道頓堀へ芝居見物に出かけたらしいです。すぐ外が水路になっていたようです。
池の中の島、何となく亀に見えますが、鶴が見つからないので亀島かわかりません。
上の写真、左上にある方形の屋根のところ、明霞亭。空襲で焼けて再建されたもの。新田などが見渡せたビューポイントだったところと思います。庭の方も植栽が生い茂っていて見にくい感があります。
壊れかけた下の方に亀甲紋が残っている灯籠。
鳳鳴亭、廊下の板の幅が違いました。左の網代など良い感じです。あまり良さがわかっていませんが、あちこち見るとおもしろいです。
(追記)
遠州流の庭について
孤篷庵という遠州の終の住処となったところがあります。火事で焼失しますが、崇敬していた松平不昧が古図により再現したものと伝えられています(ウィキペディアより)。庵号の「孤篷」は「一艘の苫舟」の意で、建物も船から庭を望むような雰囲気に仕上げられています。この庭もどこが遠州流だと思いましたが、船に見立てたところなど共通する感覚はあります。
ここは回遊式の庭園で、茶室に向かうところ石橋から入りますが、桂離宮の石橋から松琴亭のあたりを思い出しました。楽しく庭巡りができます。古くて立ち入り禁止のところなどありますが、きちんと修復されればもっと良くなると思います。
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