城と庭について,、そのパーツなどで訳を解読出来ればと思います。

2015年3月29日日曜日

頼久寺庭園

 関ヶ原の合戦後、小堀遠州(政一)の父正次が備中国奉行として政一(遠州)とともに松山に赴任し、松山城の荒廃のため、頼久寺で政務を執っていたことがあり、頼久寺を仮の居館としていたときに作庭されたといわれています。しかし遠州が作庭に携わったという明確な記録が残っておらず、詳細は不明です。(案内板より)。遠州は公儀多忙で、この地に長期滞在することもなく、自分のための庭を作る余裕はなかったのではないかとも言われています。遠州の作庭は可能性は低いですが、昔に訪れたときと比べてすっきりとしていました。サツキの苅込も季節になればきれいになると思います。

 中央右手の立った石のところが鶴島、奥の方の真ん中の石組みが亀と考えられていて、後ろの借景にあたる山が愛宕山です。鶴島の手前に礼拝石のような平たい石がおかれています。残念ながら借景が隠れていますが、その方向に少し建物が見えていますので、背を低くすれば目立ってしまうのかもしれません。借景との関係で、次のがベストな位置になると思いますが、鶴と亀が近づいてしまいます。手前の小さな石が近江富士をあらわし、遠州のふるさと近江をシンボライズしてるとの話も本当かわかりません。現在の建物は天保10年(1839)の火災により建て直されたものでビューポイントは合ってない可能性があります。


 次の写真は書院と庫裏の間の灯籠です。サツキの苅込がこちらの方からは良く見えます。

 上の写真ほぼ中央の灯籠にこの寺の歴史を示す暦応2年の銘があるそうです(多分)。火袋のところですが、4面のうち何面かに仏様が見えます。宝塔かのパーツに穴をあけ転用したもののようです。私は全然気がつきませんでした。

  四角の領域に石を敷き詰めた花壇風のところ、遠州好みの花壇のように見えますが、簡単に造作できるようで、遠州作庭とはいえないようです。

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