城と庭について,、そのパーツなどで訳を解読出来ればと思います。

2015年4月23日木曜日

狩野派、永徳の後継者たち

京都国立博物館で開催されています。その中に
重要文化財「豊臣秀吉像 西笑承兌賛」が展示されています。
 光信筆 愛媛・宇和島伊達文化保存会. 現存する秀吉を描いた画像の中で、最大(縦130.0×横103.5cm)の大きさを誇る。絵師の落款はないが、顔や手を極端に小さくあらわす点や背障の松の表現に光信の個性が顕著である。
多分、このような絵が展示されていました。この絵はどの場所のものだろうと思っていました。後ろの山水画のふすまの奥に刀が見えます。秀吉のものでしょう。また手前に欄干があります。ふすまの黒い枠に三五の桐のマークがありました。それで醍醐寺三宝院の書院のところではないかと想像しました。三宝院は写真撮影禁止です。これは完全な想像です。

三宝院庭園 NHKみちしるより

追記:
秀吉は何をしてるか、もう少し言えば、手前にある三宝院の縄張り(庭の配置などをビューポイントの書院から見て指図する)の作業中なのではと思います。醍醐寺に寄った時に刀をほったらかして作庭に熱中している様子を描いたものではないでしょうか。

追記2:H27.05.31
建築に先だって庭園が築造された。とのことです。従って三宝院縄張りの図ではないようです。
 醍醐寺大観第三巻 醍醐寺三 岩波書店2001.12.21第一刷発行
秀吉の縄張りに基づく作庭が慶長三年1598四月ー五月の約40日間。一方、義演による作庭は翌慶長四年から元和10年1624までの26年におよぶ。慶長二年の醍醐の花見を催した秀吉は、翌年に義演再興の庭を見る。そして自らの構想による作庭を試みる。翌慶長五年の後陽成天皇の行幸に呼応する座観式の庭園であった。2月20日、秀吉の現地での縄張りとともに、聚楽第から名石、藤戸石を移すよう命じている。実際の作庭は四月七日から始まり、八日には藤戸石が運びこまれ、翌九日は立てられた。慶長三年8月秀吉没後、義演がこれを元に北政所、秀頼の援助で建物を含めて完成される。

追記3:H30.12.18
秀吉の縄張りに先立って、義演の庭があったようです。
「日本庭園の歴史と文化、小野健吉著、吉川弘文館発行」からです。
この庭は、豊臣秀吉が自ら縄張りを行って築造された庭園として名高い。また、秀吉の没後作庭を引き継いだ醍醐寺座主・義演准后がその築造過程を「義演准后」に克明に記録した庭園としてしられる。とあり途中省略しますが、
最初は金剛輪院と呼ばれ、もともと将軍足利義教に重用された禅僧・任庵主《にんあんじゅ》の手になる池庭があったが、天正3年(1575)十八歳であった義演がこれを棄却してしまったのである。このことを深く航海した義演は、その後、庭を再興したことを自ら編纂した「醍醐寺新要録」に記している。秀吉が見たのは、この義演再興の庭に他ならない。そして秀吉は、自らの構想による作庭を試みる。二月二十日、秀吉は金剛輪院を訪れ、庭園の縄張りすなわち現地での地割設計を行うとともに、聚楽第から「名石」すなわち藤戸石を移すよう命じている。・・・
秀吉の作庭に費やした時間はおよそ40日、義演による作庭は二十六年にわたるとのことで、醍醐寺三宝院の庭は義演准后の庭であるとのことです。

0 件のコメント:

コメントを投稿