城と庭について,、そのパーツなどで訳を解読出来ればと思います。

2016年5月23日月曜日

小石川後楽園

江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に 完成した庭園です。見るポイントが多くはしょっています。

小廬山
一面オカメザサでおおわれた、円い築山。その姿、形が中国の景勝地・廬山に似ていることから江戸の儒学者・林羅山が名づけたもので、山頂より庭園を見おろせます。とありましたが、見落としました。

西湖の堤
中央部の傾斜がゆるやかな石橋ですが、全然目立ちません。しかしこの橋が各地の大名庭園に広まって行くそうです。将軍とかがこの橋を渡っていったのでしょうか?
大堰川
渡月橋から大堰川を見ています。名所写しです。橋もそうですが名前を聞かなければそうだとは思えません。しかし石の配置は直線上で奥にいくほど川幅よりも狭まっていて、視線は奥の方に向けられます。(写真右下の線)
 
屏風岩
三代将軍家光が近くの河原の石に腰掛けたといわれる場所ですが、よくわかりません。何かしら風景が変わっているのかもしれません。
 
清水寺観音堂跡

京都清水寺を写した観音堂があったが、大正12年の関東大震災で焼失した。案内板の説明です。図では目立ちませんが、下から観音堂の方を見ると石組みが鶴のように見えます。単なる柱の礎石では無いようです。焼けてなければわからなかったかもしれません。
写真上の柵が観音堂跡で、石組みに赤線を入れたのものを右下に表示しています。
古図では観音堂の左に手水鉢が置かれています。清水寺の手水鉢では梟(フクロウ)の水というのがあって、土台が梟の形だそうです。これを模しているのかとも思えますが、観音堂跡では手水鉢は少し埋まっています。その雰囲気はありません。謎です。
 
通天橋

赤い橋が通天橋、紅葉の季節が良いようです。右手の方に音羽の滝とのことですが、枯滝になっていてよくわかりません。
 
得仁堂
 
扁額の左に源治寶玉?とあるのは何だろうと思います。ちゃんと読めてないかもしれませんが、不明です。四辺にある動物のような文様もわかりません。
 
円月橋
残念ながら光の加減か、円に見えませんでした。橋は通れません。石がきちんと加工してあります。感心しました。
 
八卦堂跡
何かの残欠だったのですが、写真を見て石灯籠の火袋部分であるように思いました。六角形と三日月形の穴加工されていることなどからです。
案内板の写真からです。灯籠の形がなんとなくわかります。
八卦堂は関東大震災で焼失しましたが、下の八角形の礎石の部分は残っていました。
 
内庭

島に石橋を2カ所でかけていますが、島が曲線でできていて、いい感じです。下の方はドームの形状とマッチしていて現代の借景になっているように思いました。島の形はすばらしい。
 
大泉水
現在のメインとなる風景です。中央の石が徳大寺石で後ろの島が蓬莱島です。赤く見えるのが弁財天で、祠が右を向いています。古い時代には池の中に鳥居があったりして左からがメインの風景であったようです。横から見ると亀島らしく見えるのでそうだろうなと思います。
 大きな橋が架かっていたりしていたこともあったようで、時代によって変化しているので思い込みにならないよう注意しないといけないようです。
 白糸の滝が修復工事中でした。完成後が楽しみです。

2016年5月16日月曜日

浜離宮恩賜庭園

 土曜日(2016.05.14)に出かけてきました。新橋駅より歩きで大手門橋から入りました。ここは枡型大手門で江戸城の出城の役目もあったというのにも納得するものがあります。
三百年の松、6代将軍家宣が、庭園を大改修したおりに植えたと伝えられる黒松。


内堀の船着き、上の写真の中央部、階段状になっているところ。
船遊びで使用されたものと思ってましたが、江戸城に物資を運び込む中継施設のようでした。
現在のお花畑のところに籾倉(モミグラ)と呼ばれる倉があったようです。

潮の干満により風景が変わるらしい大泉水と呼ばれる潮入の池、お伝い橋を通り、中島の御茶屋の手前、池の中程から見ています。手前の島が小の字島、奥の建物が燕の御茶屋、左手の奥の方に三間橋があります。奥行き感がありいい眺めです。家宣の時代には中島には、現在工事中で見ることはできなかったですが中島橋がかかっていたようです。池の形がゆるやかな曲線、玉石敷きの護岸などで、石組みも目立たず、ぼーっと眺めるのに適した風景です。
お伝い橋は6代将軍家宣の時に初めてもうけられたそうですがよくわかりません。
しかしながら11代将軍家斉の時代、この浜御殿への御成は50年間に248回に及び、目的は鴨場の放鷹(ホウヨウ)であり、この時代に大改修され燕の御茶屋・松の御茶屋・鷹の御茶屋・新銭座鴨場などを設けたとのことです。庚申堂鴨場はこのときにの図にありますが、将軍になる前の安永7年(1778年)に築造されています。家斉の時に現在の姿の庭園になったようです。明治以降は浜離宮と改められ、迎賓・謁見の場として利用されたようです(パンフレットなどより)。

池の向こうには松の御茶屋があります。中には入れず、ガラス越しでは反射がきつくて中は見にくいですが、こちらから望遠鏡では少し見えそうです。左手には燕の御茶屋があり、その奥の方には鷹の御茶屋跡があります。

富士見山からの眺望です。富士山は画面から外れて左側になると思います。昔は見えていたのでしょう。この写真も高層ビルを避けています。

御亭山(オチンヤマ)から見ています。東京タワーは庭になじんでいる気がしますが、高層ビルは合わない感じがぬぐえません。もっと密集して壁のようになれば良いのかもしれませんが。右手の藤棚のところが小の字島、左手の屋根が中島の御茶屋です。

池の向こうは八景山と呼ばれる場所で、いろいろな風景を楽しめた場所のようです。そこに石組があります。これはお伝い橋の陰になり対岸からは見えないのですが、御亭山では高さがあるのでやっと見ることができます。これは何だろうと考えましたが、瘤のある鳥の顔ではないかと思うようになりました。青石が瘤、その右の石が目になります。

これは横堀の岬の先端に石が置かれていますが、水鳥の形に見えます。これとの関係です。もう少し見つかれば鳥をテーマにしていたと言えると思います。探してみてください。



鴨場の写真3枚です。最初は小覗きで、細いスリットから引堀に鴨をおびき寄せるのを見ます。2枚目は反対側でこの溝におとりのアヒルで鴨を導くようです。3枚目は大覗で、丸い穴から池の様子をうかがいます。大量に鴨を捕まえようとしていたのか、家斉はのめり込んでいたようですが、想像できません。
海手御茶屋跡、別名汐見の茶屋です。6代将軍家宣の時に建てられ、関東大震災で焼失したと案内板にありました。

追記:2016/05/16
 考えれば御茶屋の名前にツバメ・タカなどがもちいられているので鳥がテーマなのは当然でした。松の御茶屋の写真を追加します。ちゃんと鳥がいます。

2016年5月7日土曜日

さかさ地蔵

 大和郡山城の石垣の中にさかさ地蔵と呼ばれる石像を上下逆に配置したものがあるそうです。
ネットで見れば画像検索できます。石垣に使用する石が足らなかったのでいろいろなものを集めてきたといわれていますが、小和田哲男氏の歴史探索入門には魔除けの考えが示されています。凶のものを逆さまにすることで吉となるとの説です。納得のいく説明だと思います。石垣は見ていてアートだと思いますが、これからは変なところがないかと楽しみになります。
 日光の東照宮のモデルとなったらしい日吉大社の東照宮に、一カ所だけ完璧さを崩すために鳥の彫り物を逆さにしてあるところがあるということでした。これとつながれば面白いですが。