城と庭について,、そのパーツなどで訳を解読出来ればと思います。

2018年4月3日火曜日

三渓園、聴秋閣

 横浜市、本牧三之谷にある広大な庭園で、地形の三つの渓谷から三渓園と名付けられたという。数多くの名建築が集められているが、ランドマークとして旧燈明寺三重塔が目立つところにある。ほかに、臨春閣や聴秋閣なども有名である。


小舟で進んで行く雰囲気があります
聴秋閣であるが、そばを滝の流れがあり、水の音を楽しむのだろうと思われる。


聴秋閣正面から、ひずみが大きいです
  配置図を見ると近くに鐘楼跡があり、鐘の音もあったと思われる。また旧天瑞寺寿塔覆堂も近くにあり、これは豊臣秀吉が母の長寿を祝い、天正20年に石造の寿塔を建立した。この覆堂とされる。ここに天女や楽器の彫り物があり、音楽を奏でているイメージがある。には音へのこだわりが感じられる。

旧天瑞寺寿塔覆堂
対称に天女
笙?


 この聴秋閣であるが、縁側のところに組み物が見られる。普通の組み物は上方にあるので、違和感を感じる。この楼閣は城郭での天守閣に相当するものなのかもしれないと思ってきた。確かに2階には花頭窓があり、ここから三重塔が見えるはずだが、臨春閣など見下ろす位置にある。
望楼がつけられた建物で、西本願寺の飛雲閣のイメージと重なってくる。天守閣の末裔的な建物かもしれない。

斜め左からの聴秋閣
実際に臨春閣の天女の間には、三重塔や旧天瑞寺寿塔覆堂をイメージするもので飾られていたように思われる。原三渓のこだわりというか統一感を強く感じた。
拡大図は左からふすまの三重塔、欄間の笛(中央二つ)、右が笙


(追記)
日本の庭園美7、三渓園、集英社発行(一九八九年八月二三日第一刷発行)
この中に、「稀代の傑作庭園」として白崎秀雄氏の解説がある。
最後の方に、山縣有朋が庭造りが大好きで、小田原の古稀庵も、七〇の明治四〇年(1907)に造営し、隣の益田鈍翁別邸と共同で山頂に水道を造って水を引き、庭内で滝にして落とすかたちにしたのが、自慢だった。
四二歳の原は益田の引き合せで初めて古稀庵を訪れ、滝の前に行き、山縣に感想を求められると、
「閣下、失礼でございますが、この滝は滝になって居りませんです」
と、言い放った。益田は巨軀をちぢみ上がらせて色を失う。
「なに、滝になっていないと?」
と、山縣は尖った顴骨《かんこつ》を一層尖らせて問い返す。
「この滝の岩石の配置などはどうでもよろしうございますが、肝腎の滝の流れのひびきに命がございません。言葉で表すのは難しうございますから、どうか私の造りました三渓園の滝を一度ごらんいただきとう存じます」
 謙虚な人柄を以て知られる原ではあったが、こと三渓園に関してはそう断言してはばからぬ確信を持っていたのである。
・・・・
と書いてある。原には変質的なところがあるのかもしれないが、音にこだわっていたことは確かであると思う。

2017年10月3日火曜日

一国一城令の痕跡?

滋賀県指定名勝 池氏庭園を見学しました。
江戸時代の初期または中期の庭とのことです。
庭は前面には蓬莱山を意味する亀島が設けられ、中央奥の築山には竹生島弁天を祀る祠があります。手前の礼拝石のような所に立つと、視点が庭で覆われ、圧倒される景観があります。
この庭園は、現在、個人の住宅にあるものです。
説明板によると
「この池氏は、佐々木源氏伊庭氏の一門、伊庭新介の長男が池掃部の名目を伝えたに始まるといわれている。本庭はその後裔、池木龍の作である・・」とあります。
庭がメインなのですが、庭の後ろ側が住宅の外側になります。ここに石垣が残っているのが見えて、これが築山の所となっています。私はこの築山が庭を造るためにできたものでなく、もとからあった石垣を利用して築山としたと思います。もともと石垣を持つ館ではなかったかということです。写真がないのが残念です。
想像を拡げますと、戦国時代、少なくとも安土桃山時代までは武士の館として、周りを石垣で囲むのは普通で、ここもその一つではなかったかと思います。江戸時代には、一国一城令(いっこくいちじょうれい)という慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)に江戸幕府が制定した法令があります。
大名の領国には一つの城を残して、残りすべての城は廃城にするというものです。これにより全国に3000近くあった城郭が約170まで激減したといいます(ウィキペディアより)。城を廃するとは石垣をなくすということなので、全国の石垣が消えていったのだと思います。この池氏庭園の石垣も取り壊されたかもしれませんが、たまたまか庭園の構成要素として残ったように思われます。あちこち見て回ってるわけではないのでわかりませんが、普通の家には石垣などないので、個人的には大発見の気分です。
豊臣秀吉の時代、刀狩りによって武士と農民とを分けたのですが、
家康は、国人的な家臣団の城のような居住域を武装解除し、城下町に住まわせたと考えられます。戦国時代には、敵国を攻めるのに調略(ちょうりゃく)という言葉がよく出てきます。大名の家臣団を寝返りさせるものですが、おそらく家臣団といえども一国一城の主であって、独自の判断ができたと思われます。自分のところが攻めてこられても、しばらく自分の城(石垣のある居館)の中で耐え、同盟関係の誰かの助けを待つという方策が取れます。戦国大名といえども家臣団の意向を無視できなかったはずです。一国一城令により、小さな城の石垣を転用して大きな城の石垣ができたかもしれません。
家康は、反乱が起こっては困るので、その軍事拠点が残らないようにと考えたはずです。これが、戦国時代から江戸時代の戦のない時代に変化した理由かもしれません。

2017年7月5日水曜日

一乗谷朝倉氏遺跡

戦国大名の朝倉氏は、越前国を支配し、一乗谷に城下町を築いた。一乗谷は南北5km、東西の広いところでも500mの狭小の谷間で、北と南に下城戸、上城戸を設け、中に武家屋敷・寺院・商人や職人たちの住む町屋などが配置されている。またいざというときに、逃げ込むための一乗谷城という山城がある。五代目義景の時に、織田信長との刀根坂の戦いで敗北し、大野に逃げたものの裏切りにあい、自害したとのことである。一乗谷の城下は戦火にあい、その後埋もれてしまったが、昭和になり、名称指定や発掘調査などで遺跡が整えられてきている。

朝倉館跡庭園(特別名勝)
朝倉義景の居館跡、現在唐門があるところから、奥の方に進むと花壇遺構を通り、接客の施設である、会所・数寄屋に至ります。ここに庭園跡があります。後に将軍となる足利義昭を招くために作られたと言われている庭園です。庭の視点は会所側と数寄屋側の両方から考えられており、大きな石組が配置され、滝も2面にあり水の流れを切り替えて使用されたようです。山裾にはジグザグに流水路が作られて滝の水になります。山畔の上には貯水池が設けられて、実際に滝として利用したもので枯れ滝ではありません。
(会所側から見ていて石組は中央下の方、左上からの線上の流水路が目立ちます)

 
(流水路で手前から水が流れ、下っていきます)



この庭の引っかかるところは、庭の大きさです。小さすぎるように思われます。この南側の高台にある湯殿跡庭園は池の近くに寄れば、ぐるりと石組で囲まれるパノラマ的な庭園です。大きさで見劣りするように思われます。何かがあるはずで、それを考えていて、諏訪館跡庭園の主たる庭園の奥、上段に湧泉石組があり、せせらぎの音が聞かれこれだと思いました。そこは、それほどの段差はなく、流量もそれほどでもありません。この義景居館跡の庭園は、貯水池から高低差10mはありそうで、くねった水路でしかも溝は底も含めて石組のように見えます。ゆったりと流れ、山の斜面からのせせらぎの音はそこそこ大きかったのではと想像します。義昭接待の時、BGMのようなものであったかもしれません。かなりの大ざっぱな計算ですが、9トンぐらいの水が貯め込まれて、毎秒1リットルで流されたとして、150分ぐらいになります。水の貯水量が少なくても流す分を押さえれば、義昭の滞在時間であれば十分と思われます。妄想にも思えますが、実際に聴いてみたいものです。違うとしても、基本は、将軍御成の為に作庭されたもので、当時の京都の庭の感覚のものだろうと思います。一乗谷には、ほかにもすばらしい戦国の時代の庭が、残っていますが、戦争に明け暮れていただけではなく庭を楽しんでいたんだなと思います。

2016年11月23日水曜日

和歌山城、西の丸庭園

御橋廊下から天守の方を見ています。
堀に中島があります。完全に堀を池に見立てています。
写真では見にくいですが、中央左下に島があります。
 
 
西の丸庭園、紅葉渓庭園ともいわれてるそうです。石組とか良いなと思いますが、今回、最高のポイントを見つけました。写真中央の舟石?らしき平坦な石のところです。ここからは全周360度見渡すことができます(多分)。お殿様の特権の場所だと思います。実際にはこの石の近くまで出島のようなところがあり、その先端に立てば想像することができます。この場所には、人がいなかったのでゆっくりと眺めることができました。正面には滝が二つ、左手には石組が前後に奥行きをもって据えれており、鑑賞式庭園でもなかなかこのようなポイントはないと思います。


 
御橋廊下:
藩主の生活の場である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来する橋で、平成18年に復元。長さ27m、幅約3m。江戸時代には藩主とそのお付きの人だけが行き来でき、外からは姿が見えない造り。今は通り抜けができます。
 


2016年10月28日金曜日

安土城の石垣

 石垣と全く関係ないかもしれませんが、ひょっとしてというアイデアです。鎌倉から南北朝にかけての石造品の数です。


にある滋賀県の各市町村での数を調べて見ました。単純に数えるのはダメだろうと思い、その地域の人口で割ってみました。
 国勢調査の人口なので問題ありますが、目安になるかもというグラフです。


 図の矢印のところが近江八幡市で安土町を含みます。周りに比べて石造物が少ないように思われます。これが、安土城が出来たときに周辺の石造物を石垣に転用した影響であると言えるのかどうか。忘れてしまいそうなので、これまたメモ書きです。

追記:2016/10/29
 羽田神社の石灯籠(滋賀県東近江市上羽田町2257)
説明板には有りませんが、安土から移転したらしいです。竿の部分に正応元年(1298)の紀年銘がり、鎌倉時代後期を示しているとのことです。羽田神社の社歴によれば、天正九年伊達中納言政宗の領地になり代々寄進再建を加えられたとあり、また天正七年(1579)に安土城天守が完成しています。この頃に移動があった可能性はあります。

 

2016年10月11日火曜日

慈光院庭園


寛文3年(1663年)に石州流茶道の祖・片桐石見守貞昌(石州)が父・貞隆の菩提寺として大徳寺185世・玉舟和尚(大徹明應禅師)を開山に迎え建立。慈光院の名は父・貞隆の法名「慈光院殿雪庭宗立居士」から採られています。境内全体が茶室として設計されており、石州の美意識が具現化されたもののようです。
座敷から眺める東側、奈良の青垣と呼ばれる山々から南側の大刈り込みまで連続してつながるワイドスクリーンの風景が素晴らしいです。写真は2枚です。
 


ここでの大刈り込みは庭に出てみるとわかりますが、観音堂をくるんだ形になっていて屋根のあたりだけが見えます。刈り込みの両側を囲まれた中、石段を上がって行き、観音堂でお参りした後、振り返ると屋敷内で見た時より、高い視点で風景を楽しむことができます。

以下、思いつきです。
ここと名古屋城二之丸庭園の権現山と同じではないかと思います。もちろん名古屋城の方は石段などスケールアップしていますし、拝殿・本殿と多分権現造りで、周りは杦(杉のことだと思います)に囲まれているなど尾張徳川家のアレンジがあると思います。初期の二之丸庭園ではこのような神社などはなく、江戸時代後期にはできています。慈光院庭園は1663年ですので時期的にはあっています。また石州は4代将軍家綱のお茶指南役になっていて、各地の大名も学んでいるようです。その中に尾張徳川家があって、石州の影響で庭を造り直した可能性は大きいと思います。
配置図、慈光院と二之丸庭園権現山付近です。


2016年9月24日土曜日

明治の金閣寺・銀閣寺

庭とは関係ないですが。
京都名所撮影という明治初期に発売された写真集らしいです。
(日文研の資料より)
金閣寺と銀閣寺です。金閣寺などは2階に廊下状のものがあり、
銀閣寺も障子らしきものがぼろぼろで、廃仏毀釈の影響かもしれませんが、びっくりしました。