滋賀県指定名勝 池氏庭園を見学しました。
江戸時代の初期または中期の庭とのことです。
庭は前面には蓬莱山を意味する亀島が設けられ、中央奥の築山には竹生島弁天を祀る祠があります。手前の礼拝石のような所に立つと、視点が庭で覆われ、圧倒される景観があります。
この庭園は、現在、個人の住宅にあるものです。
説明板によると
「この池氏は、佐々木源氏伊庭氏の一門、伊庭新介の長男が池掃部の名目を伝えたに始まるといわれている。本庭はその後裔、池木龍の作である・・」とあります。
庭がメインなのですが、庭の後ろ側が住宅の外側になります。ここに石垣が残っているのが見えて、これが築山の所となっています。私はこの築山が庭を造るためにできたものでなく、もとからあった石垣を利用して築山としたと思います。もともと石垣を持つ館ではなかったかということです。写真がないのが残念です。
想像を拡げますと、戦国時代、少なくとも安土桃山時代までは武士の館として、周りを石垣で囲むのは普通で、ここもその一つではなかったかと思います。江戸時代には、一国一城令(いっこくいちじょうれい)という慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)に江戸幕府が制定した法令があります。
大名の領国には一つの城を残して、残りすべての城は廃城にするというものです。これにより全国に3000近くあった城郭が約170まで激減したといいます(ウィキペディアより)。城を廃するとは石垣をなくすということなので、全国の石垣が消えていったのだと思います。この池氏庭園の石垣も取り壊されたかもしれませんが、たまたまか庭園の構成要素として残ったように思われます。あちこち見て回ってるわけではないのでわかりませんが、普通の家には石垣などないので、個人的には大発見の気分です。
豊臣秀吉の時代、刀狩りによって武士と農民とを分けたのですが、
家康は、国人的な家臣団の城のような居住域を武装解除し、城下町に住まわせたと考えられます。戦国時代には、敵国を攻めるのに調略(ちょうりゃく)という言葉がよく出てきます。大名の家臣団を寝返りさせるものですが、おそらく家臣団といえども一国一城の主であって、独自の判断ができたと思われます。自分のところが攻めてこられても、しばらく自分の城(石垣のある居館)の中で耐え、同盟関係の誰かの助けを待つという方策が取れます。戦国大名といえども家臣団の意向を無視できなかったはずです。一国一城令により、小さな城の石垣を転用して大きな城の石垣ができたかもしれません。
家康は、反乱が起こっては困るので、その軍事拠点が残らないようにと考えたはずです。これが、戦国時代から江戸時代の戦のない時代に変化した理由かもしれません。