城と庭について,、そのパーツなどで訳を解読出来ればと思います。

2017年10月3日火曜日

一国一城令の痕跡?

滋賀県指定名勝 池氏庭園を見学しました。
江戸時代の初期または中期の庭とのことです。
庭は前面には蓬莱山を意味する亀島が設けられ、中央奥の築山には竹生島弁天を祀る祠があります。手前の礼拝石のような所に立つと、視点が庭で覆われ、圧倒される景観があります。
この庭園は、現在、個人の住宅にあるものです。
説明板によると
「この池氏は、佐々木源氏伊庭氏の一門、伊庭新介の長男が池掃部の名目を伝えたに始まるといわれている。本庭はその後裔、池木龍の作である・・」とあります。
庭がメインなのですが、庭の後ろ側が住宅の外側になります。ここに石垣が残っているのが見えて、これが築山の所となっています。私はこの築山が庭を造るためにできたものでなく、もとからあった石垣を利用して築山としたと思います。もともと石垣を持つ館ではなかったかということです。写真がないのが残念です。
想像を拡げますと、戦国時代、少なくとも安土桃山時代までは武士の館として、周りを石垣で囲むのは普通で、ここもその一つではなかったかと思います。江戸時代には、一国一城令(いっこくいちじょうれい)という慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)に江戸幕府が制定した法令があります。
大名の領国には一つの城を残して、残りすべての城は廃城にするというものです。これにより全国に3000近くあった城郭が約170まで激減したといいます(ウィキペディアより)。城を廃するとは石垣をなくすということなので、全国の石垣が消えていったのだと思います。この池氏庭園の石垣も取り壊されたかもしれませんが、たまたまか庭園の構成要素として残ったように思われます。あちこち見て回ってるわけではないのでわかりませんが、普通の家には石垣などないので、個人的には大発見の気分です。
豊臣秀吉の時代、刀狩りによって武士と農民とを分けたのですが、
家康は、国人的な家臣団の城のような居住域を武装解除し、城下町に住まわせたと考えられます。戦国時代には、敵国を攻めるのに調略(ちょうりゃく)という言葉がよく出てきます。大名の家臣団を寝返りさせるものですが、おそらく家臣団といえども一国一城の主であって、独自の判断ができたと思われます。自分のところが攻めてこられても、しばらく自分の城(石垣のある居館)の中で耐え、同盟関係の誰かの助けを待つという方策が取れます。戦国大名といえども家臣団の意向を無視できなかったはずです。一国一城令により、小さな城の石垣を転用して大きな城の石垣ができたかもしれません。
家康は、反乱が起こっては困るので、その軍事拠点が残らないようにと考えたはずです。これが、戦国時代から江戸時代の戦のない時代に変化した理由かもしれません。

2017年7月5日水曜日

一乗谷朝倉氏遺跡

戦国大名の朝倉氏は、越前国を支配し、一乗谷に城下町を築いた。一乗谷は南北5km、東西の広いところでも500mの狭小の谷間で、北と南に下城戸、上城戸を設け、中に武家屋敷・寺院・商人や職人たちの住む町屋などが配置されている。またいざというときに、逃げ込むための一乗谷城という山城がある。五代目義景の時に、織田信長との刀根坂の戦いで敗北し、大野に逃げたものの裏切りにあい、自害したとのことである。一乗谷の城下は戦火にあい、その後埋もれてしまったが、昭和になり、名称指定や発掘調査などで遺跡が整えられてきている。

朝倉館跡庭園(特別名勝)
朝倉義景の居館跡、現在唐門があるところから、奥の方に進むと花壇遺構を通り、接客の施設である、会所・数寄屋に至ります。ここに庭園跡があります。後に将軍となる足利義昭を招くために作られたと言われている庭園です。庭の視点は会所側と数寄屋側の両方から考えられており、大きな石組が配置され、滝も2面にあり水の流れを切り替えて使用されたようです。山裾にはジグザグに流水路が作られて滝の水になります。山畔の上には貯水池が設けられて、実際に滝として利用したもので枯れ滝ではありません。
(会所側から見ていて石組は中央下の方、左上からの線上の流水路が目立ちます)

 
(流水路で手前から水が流れ、下っていきます)



この庭の引っかかるところは、庭の大きさです。小さすぎるように思われます。この南側の高台にある湯殿跡庭園は池の近くに寄れば、ぐるりと石組で囲まれるパノラマ的な庭園です。大きさで見劣りするように思われます。何かがあるはずで、それを考えていて、諏訪館跡庭園の主たる庭園の奥、上段に湧泉石組があり、せせらぎの音が聞かれこれだと思いました。そこは、それほどの段差はなく、流量もそれほどでもありません。この義景居館跡の庭園は、貯水池から高低差10mはありそうで、くねった水路でしかも溝は底も含めて石組のように見えます。ゆったりと流れ、山の斜面からのせせらぎの音はそこそこ大きかったのではと想像します。義昭接待の時、BGMのようなものであったかもしれません。かなりの大ざっぱな計算ですが、9トンぐらいの水が貯め込まれて、毎秒1リットルで流されたとして、150分ぐらいになります。水の貯水量が少なくても流す分を押さえれば、義昭の滞在時間であれば十分と思われます。妄想にも思えますが、実際に聴いてみたいものです。違うとしても、基本は、将軍御成の為に作庭されたもので、当時の京都の庭の感覚のものだろうと思います。一乗谷には、ほかにもすばらしい戦国の時代の庭が、残っていますが、戦争に明け暮れていただけではなく庭を楽しんでいたんだなと思います。